2022年06月19日
100年前の「世界(ヨーロッパ)の危機感」を今再見直し
前略
この現代に、ドラッカーが、1914年の一次大戦から、1933年のナチズム政権の時代までの時代の本を見直す。
如何にして、全体主義が始まり進展していったか・・、である。
時代感覚としては、なぜか最近の状況に似ている気がする。
・・・・
民主主義、資本主義に自信が無くなって、「国連のG5」のロシアがまさかという行動に出た。プーチンさん個人の権力維持のための戦争である、中国も同じで、何が起こるかわからない昨今である。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ーーーードラッカーの名著が反資本主義に向かう現代に鳴らす「警鐘」ーーーー
(『「経済人」の終わり』(P.F.ドラッカー)で読み解く)
秋山進:プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役;2021.1.21、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第一次世界大戦後、ヨーロッパはファシズム(全体主義)に襲われる。
『「経済人」の終わり』はファシズムとはなにかを解説したもので、ファシズムが進展する1939年に出版された著者ドラッカー29歳の処女作である。
単なる現象の解説や診断ではなく、ファシズムの原動力と本質、すなわち人の価値観の変化と人間の本性から天地万物及び社会における人間の位置を見抜き、その運動の必然的な帰結を予測(断言)した。
すでにドラッカーのドラッカーたるゆえんである洞察力に満ち満ちている。
そして、今の時代だからこそ読むべき本と言っていい。
なぜ今読むべきなのか、本書の論旨をかいつまみながら解説していく。
・・・・・・・・
『「経済人」の終わり』というタイトルだけ見て、従来型の資本主義が行き詰まり、混乱のさなかにある現状のことかと思われた読者もいるかもしれない。
アメリカは異常ともいえる混乱状況にあるだけではなく、従来型の資本主義が行き過ぎた結果として引き起こされた矛盾や格差の拡大、社会の分断があらゆるところで問題になっている。
かたや中国のような共産主義体制国家の巨大化、独裁政権による弊害が引き起こす問題も無視できない。
・・・・
実は、今からおよそ80年~90年前の1930年代にも、世界は同様の事態に陥っていた。
本書を読むことは、今の混迷の時代を読み解くヒントになる。
・・・
まず、なぜタイトルが『「経済人」の終わり』なのか。
近代ヨーロッパでは、おおざっぱに言えば、王侯貴族が牛耳る階級社会に対して市民革命が起こり、産業革命によって一般市民の一部が資本家(ブルジョア資本主義、以下仮に資本主義とする)として台頭。
すると今度は資本家に牛耳られた労働者が共産主義革命(マルクス社会主義、以下仮に社会主義とする)を起こした。
・・・
つまり、貴族や階級をつぶして自由になるため、経済の力でのしあがったのがブルジョア資本家であり、資本家から自由になろうとしたのが社会主義である。
社会主義は、資本家には反対していても貴族ではないので、資本家と同じく根本では経済の力という自由を得る手段によって成立している。
・・・
「あらゆる社会が、人間の本性およびその社会における位置と役割についての概念を基盤として成立している。
~中略~ まさに、人間を経済的動物(エコノミック・アニマル)とする概念は、完全に自由な経済活動をあらゆる目的を実現するための手段として見るブルジョア資本主義およびマルクス社会主義の基盤である」(以下、「」内の引用文はすべて『「経済人」の終わり』〈ダイヤモンド社〉)
・・・
資本主義と社会主義という当時のヨーロッパの2大思想はいずれも、人が経済的動物(経済人)であるという前提で成立していると書かれている。
なぜなら経済の力を使って貴族や階級から自由になろうとしていたからである。
つまり経済人は、ヨーロッパで尊ばれてきた「自由」と「平等」を実現するためという目的で正当化できるし、そのために生まれた概念だとドラッカーは言う。
・・・
「社会秩序および信条としてのブルジョア資本主義は、経済的な進歩が個人の自由と平等を促進するという信念に基づいている。
マルクス社会主義はそのような社会は私的利潤を廃止することによってもたらされると期待する。
これに対してブルジョア資本主義は、自由で平等な社会は、私的利潤を社会行動の規範とすることによってもたらされると期待する」
・・・
>>>資本主義も社会主義も新たな階級をつくっただけ
残念なことに、資本主義が夢想した(階級からの)自由と平等の実現は幻想に過ぎなかった。
経済発展は機会均等といった形式的な平等さえもたらさず、それどころか資本家は経済の力を自分だけのものにして私腹をこやし、ブルジョア階級という新しい階級をつくって、彼ら以外が階級を上ることを事実上不可能な状況まで作り出してしまったのだ。
・・・
その問題を解消し、今度こそ本当の自由と平等を手に入れようとして登場した社会主義も、これまた同じ結果に陥った。
共産主義革命が起こっても、権力、地位、資本家(や貴族)から収奪した革命の果実は、共産党の特権官僚に移転しただけ。
社会主義は、共産党内部の階級差から目をそらさせるため、その活動を労働者の社会的、経済的地位の向上に限定した。
そうなると根本的な社会改革にはならず、労働組合主義として資本主義の枠内での会社や組織での組合運動にとどまることになる。
結局、社会主義も社会に真の自由と平等をもたらす思想ではなかったのだ。
・・・
以上が1930年頃のヨーロッパの状況である。
「経済人」の概念をもとにして、自由と平等が実現されるはずだった2つの思想(資本主義と社会主義)とそれによる社会秩序は行き詰まった。大衆はこれに絶望した。
既存の社会秩序が正当性を欠いて、「戦争」と「失業」という2つの魔物に対抗できなくなる。
しかも、混乱を収めるための新たな秩序は現れず、ますます混沌が極まった。そして、
・・・
「大衆は、世界に合理をもたらすことを約束してくれるのであれば、自由そのものを放棄してもよいと覚悟するにいたった」
のである。
・・・
>>>資本主義も社会主義もダメそこに登場した「ファシズム」
人間は弱い生き物だ。
社会がぐちゃぐちゃで先行きが不透明になることに耐えられず、「パワハラ」的に自由を奪われてもいいから、強い力で自分たちを導いてくれる体制を求める。
そこに現れたのが「ファシズム全体主義(以下仮にファシズムという)」である。ファシズムは個人の自由を徹底的に制限し、前向きな信条は何もなくとにかく過去はすべて――経済人モデルも含めて――完全に否定する。
・・・
「ドイツとイタリアのファシズム全体主義において、もっとも重要でありながら最も知られていない側面が、個々の人間の位置と役割を、経済的な満足、報酬、報奨ではなく、非経済的な満足、報酬、報奨によって規定していることである」
・・・
つまり、経済の力を使って自分の力で自由になることは否定され、弾圧されたのだ。
人間は経済の力で生きているのではないことにされ、ファシズム政権が人々の社会的な役割や位置づけを完全管理した(ここでは詳述しないが、ユダヤ人は血統がどうのというよりも、お金もうけ、経済人の象徴として弾圧されたのである)。
・・・
たとえば、ファシズム政権によって、農民は「民族の背骨」、労働者は「民族の精神」として称揚された。
恵まれない層に対しては、オペラ、コンサートへの参加、外国への旅行などが提供された。
ブルジョア階級には「文化の担い手」という地位が与えられた。
ファシズム政権下では、あらゆる人間が経済的地位とは無関係だった。
あたかも中国の文革時代のようである。
・・・
では、ファシズムが否定した経済人に代わるものとして、新しく概念化された人物像は何か。
それが「英雄人」である。
いつでも自らを犠牲にする用意があり、自己規律に富み、禁欲的で強靭な精神を持つ人間を指す。
英雄人が、経済活動とは無縁で、国の中で役割を果たせる場所、それが国民皆兵の軍隊である。
こうしてファシズムは必然的に軍国主義化する。
・・・
「あらゆる経済活動と社会活動を軍事体制下に置くという軍国主義は、産業社会の形態を維持しつつ社会に対して非経済的な基盤を与えるという、きわめて重要な社会的役割を果たしうる。
しかも同時に、完全雇用をもたらし、失業という魔物を退治する役割を果たす」
・・・
>>>ファシズムは経済の自由を否定し人を兵隊として体制に組み込む
ファシズムでは自由な経済活動をさせず、禁欲を説いて、国民に節約させる。
国民が貯蓄したカネは、国が公債を発行して国民にそれを買わせることで、国が吸い上げて、財政基盤を確立し、軍需産業を興し、軍隊を強化して完全雇用を実現する。
つまり、脱経済至上主義と軍国主義はセットになって「失業」という魔物を退治した。
一方でもう一匹の魔物である「戦争」を意義のあるものとして利用する。
戦争があることで、英雄人に経済活動をさせずに、国が「兵として働き、犠牲をいとわず国に尽くす」という役割や意義を与えることができる。
・・・
しかし、国のために死ぬのが英雄人というような犠牲の正当化は社会を破壊する。
プロパガンダはともかく、ファシズムの大衆も実際には戦争が怖いし、したくなんかない。
というわけで、英雄人という概念による社会の構築はひとまずは成功しなかった。
・・・
このような状況では、逃げ道は一つしかない。それは、すべてを他人のせいにすることである。自分たちは正しいが、どこそこの国は絶対悪である、ということにして戦争をするのである。
・・・
「ファシズム全体主義だけが敵からの脅威の存在を自らの信条そのものの実体として扱う。
そして、ついには、彼らからの脅威の絶滅こそが、ファシズム全体主義の正当化の事由とされる」
・・・
この延長線上で、ファシズムは再び欧州全体を戦火に巻き込んだ。
本書は、第二次世界大戦勃発前に書かれているが、ドラッカーは「前向きな信条」が何もないファシズムでは、新しい社会を作り得ないことを誰よりも深く理解していた。
そのうえで13世紀と16世紀にあった秩序崩壊に関してこう語る。
・・・
「古い秩序が壊滅し、新しい秩序が出現するまでの転換期の時代は、まさに今日のように混沌、恐慌、迫害、全体主義の時代とならざるを得ない。
あの頃も終末が到来し、新しい展開はありえないと考えられた。
しかし、突然、いずこからともなく、新しい秩序が現れ、悪夢はあたかも存在していなかったかのように消えた。
(中略)「経済人」の社会が崩壊したあとに現れる新しい社会もまた、自由と平等を実現しようとすることになる。
その未来の秩序において、人間の本性のいかなる領域が社会の中心に位置づけられるかはわからない。
しかしそれは経済の領域ではない」
・・・
>>>英首相になる前のチャーチルもドラッカーの洞察力を激賞
ドラッカーは、経済人の枠を超えて、新しい社会や自由をもたらす思想を希求していた。
かくして、『「経済人」の終わり』が本書のタイトルとなったのである。
・・・
本書は、首相になる前のチャーチルが書評で激賞したことでも有名である(書評は『「経済人」の終わり』に付録として収録)。
ドラッカーの思考のエッセンスを3ページで書ききった、エネルギーに満ちた書評である。
・・・
「英雄人は成立しない、経済人は終わる」と言いはしても、次の時代のモデルを示さなかったドラッカーに対し、チャーチルは資本主義の失敗を指摘しつつ、まだ経済人もブルジョア資本主義も死んではいないと宣言する。
実際、資本主義はその後度重なる修正を加えて生き続け、新たな人間像のモデルも生み出されてこなかった。
・・・
ただチャーチルは、ドラッカーを「独自の頭脳を持つだけでなく、人の思考を刺激してくれる書き手である。
それだけですべてが許される存在である」とまで称賛する。
初版の序文を書いた当時の有名なジャーナリスト、ブレイスフォードも「人の知覚力において差がでるものは動くものにおいてである。
動かないものであれば誰でも見ることができる。
複雑なるものの中にパターンとリズムを識別するには、格別の眼力を必要とする(中略)ピーター・ドラッカーには、そのような才能がある」と褒め称えた。
本書は動いている社会のなかにある真のパターンとリズムを、ドラッカーの洞察力が見抜いた卓越した書と言っていい。
・・・
>>>1930年代と似た現代ドラッカーならどう分析したか
さて、視点を現在に向けてみよう。
我々は新型コロナウイルスという魔物の支配下からまだ抜け出せていない。
ワクチン開発の進展などでようやく一筋の光が見えてきたところだが、首都圏を中心に再び緊急事態宣言が発令され、失業という魔物の増加も予測される。
その一方で、この危機を機会ととらえ、自国の影響力を世界的に高めようとする地政学的な思惑と行動がうごめいている。
・・・
もう一つの魔物である戦争は、世界各地で今もやむことはなく、覇権国争いとしての米中対立も「トゥキディデスの罠」(覇権国とそれに挑む新興国が折り合えないまま戦争に至ってしまう状態)にはまり、今後、本格的な戦争が引き起こされる可能性も否定できない。
・・・
修正を重ねてきたはずの資本主義が、どうしようもない大きな不平等を生み出している。
アメリカで顕著になっている社会の分断も、実際には二極化ではない。
「経済人」的パラダイムを引きずるワシントン的思考と、非合理であっても自由を求める「自由人」と、たまりにたまった不平等の解消こそが第一と考える「平等人」の3分断であり、自由人と平等人はいずれも経済人的思考の限界から生まれた異母兄弟と考えるほうがよいのかもしれない。
・・・
また、物財やサービスを中心とする産業構造が、データや人工知能を利用するデータ資本主義の段階に突入し、これらが既存の物財・サービス産業に影響を及ぼし始める時代に突入している。
その結果、既存の産業政策と統治の方法がマッチしなくなっている。
しかし、一方では、これまで判明していなかった因果関係が明らかになり、予測のレベルが大きく上がることで、これまでよりずっと効率性の高い社会が実現可能になろう。
・・・
その際に、個人の私権(自由)が全体最適のために制限される局面も増えるだろう。
多少のナッジ(自発的に自分で選んだかのように望ましい選択や行動をさせる工夫)でそれらの問題が解決できるのか、それとも公共の福祉や全体最適のために個人の自由が大幅に制限される社会に変わっていくのか。
いずれもあり得ることだろう。
・・・
さらには、気候変動という人類史上最大の魔物との対峙が始まっている。
一部には、因果性を疑う声もあるが、地球の温度上昇と産業発展との関係はほぼ確実であろう。
未曽有の台風、消せない山火事、隠れていた病原菌の再活性化などが予測される。
これらへの対処は、SDGsといった免罪符のレベルでは対応できず、経済活動を強力に制限して抑え込むべきだという思想が強まるのではないか。
それは利潤動機の資本主義をストップし、地球環境の維持を動機とする計画経済(のようなもの)を求める世界的運動になることを指す。
この場合は、人々を「経済人」ではなく、「環境人」と呼ぶモデルかもしれない。
・・・
これらは、我々が直面しているほんの一部の問題に過ぎない。
実は、このような現象の羅列ではなく、動きの本質を見抜き複雑な因果関係を整理し、その根本的な運動法則を一言で言い放つとともに、その必然的な結果を断言してきたのがドラッカーだった。
・・・
今ほどドラッカーの見立てを聞いてみたいときはない。
亡くなって15年以上もたってしまった。
ドラッカーだったらどう考えるか。
それを想像するしか、我々にできることはないのがとても残念である。
(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)
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https://diamond.jp/articles/-/260133
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「気候危機」を面前にしての、混乱である。
当時も混乱そのものだったと思う。
専制主義と言っても、独裁そのものの国が、混乱を起こしている。
・・・
新しい時代を、国連という機関を動かして、なんとか進むしかないのでしょう。
・・・
では、草々
2022-6-19
森下克介
この現代に、ドラッカーが、1914年の一次大戦から、1933年のナチズム政権の時代までの時代の本を見直す。
如何にして、全体主義が始まり進展していったか・・、である。
時代感覚としては、なぜか最近の状況に似ている気がする。
・・・・
民主主義、資本主義に自信が無くなって、「国連のG5」のロシアがまさかという行動に出た。プーチンさん個人の権力維持のための戦争である、中国も同じで、何が起こるかわからない昨今である。
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ーーーードラッカーの名著が反資本主義に向かう現代に鳴らす「警鐘」ーーーー
(『「経済人」の終わり』(P.F.ドラッカー)で読み解く)
秋山進:プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役;2021.1.21、
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第一次世界大戦後、ヨーロッパはファシズム(全体主義)に襲われる。
『「経済人」の終わり』はファシズムとはなにかを解説したもので、ファシズムが進展する1939年に出版された著者ドラッカー29歳の処女作である。
単なる現象の解説や診断ではなく、ファシズムの原動力と本質、すなわち人の価値観の変化と人間の本性から天地万物及び社会における人間の位置を見抜き、その運動の必然的な帰結を予測(断言)した。
すでにドラッカーのドラッカーたるゆえんである洞察力に満ち満ちている。
そして、今の時代だからこそ読むべき本と言っていい。
なぜ今読むべきなのか、本書の論旨をかいつまみながら解説していく。
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『「経済人」の終わり』というタイトルだけ見て、従来型の資本主義が行き詰まり、混乱のさなかにある現状のことかと思われた読者もいるかもしれない。
アメリカは異常ともいえる混乱状況にあるだけではなく、従来型の資本主義が行き過ぎた結果として引き起こされた矛盾や格差の拡大、社会の分断があらゆるところで問題になっている。
かたや中国のような共産主義体制国家の巨大化、独裁政権による弊害が引き起こす問題も無視できない。
・・・・
実は、今からおよそ80年~90年前の1930年代にも、世界は同様の事態に陥っていた。
本書を読むことは、今の混迷の時代を読み解くヒントになる。
・・・
まず、なぜタイトルが『「経済人」の終わり』なのか。
近代ヨーロッパでは、おおざっぱに言えば、王侯貴族が牛耳る階級社会に対して市民革命が起こり、産業革命によって一般市民の一部が資本家(ブルジョア資本主義、以下仮に資本主義とする)として台頭。
すると今度は資本家に牛耳られた労働者が共産主義革命(マルクス社会主義、以下仮に社会主義とする)を起こした。
・・・
つまり、貴族や階級をつぶして自由になるため、経済の力でのしあがったのがブルジョア資本家であり、資本家から自由になろうとしたのが社会主義である。
社会主義は、資本家には反対していても貴族ではないので、資本家と同じく根本では経済の力という自由を得る手段によって成立している。
・・・
「あらゆる社会が、人間の本性およびその社会における位置と役割についての概念を基盤として成立している。
~中略~ まさに、人間を経済的動物(エコノミック・アニマル)とする概念は、完全に自由な経済活動をあらゆる目的を実現するための手段として見るブルジョア資本主義およびマルクス社会主義の基盤である」(以下、「」内の引用文はすべて『「経済人」の終わり』〈ダイヤモンド社〉)
・・・
資本主義と社会主義という当時のヨーロッパの2大思想はいずれも、人が経済的動物(経済人)であるという前提で成立していると書かれている。
なぜなら経済の力を使って貴族や階級から自由になろうとしていたからである。
つまり経済人は、ヨーロッパで尊ばれてきた「自由」と「平等」を実現するためという目的で正当化できるし、そのために生まれた概念だとドラッカーは言う。
・・・
「社会秩序および信条としてのブルジョア資本主義は、経済的な進歩が個人の自由と平等を促進するという信念に基づいている。
マルクス社会主義はそのような社会は私的利潤を廃止することによってもたらされると期待する。
これに対してブルジョア資本主義は、自由で平等な社会は、私的利潤を社会行動の規範とすることによってもたらされると期待する」
・・・
>>>資本主義も社会主義も新たな階級をつくっただけ
残念なことに、資本主義が夢想した(階級からの)自由と平等の実現は幻想に過ぎなかった。
経済発展は機会均等といった形式的な平等さえもたらさず、それどころか資本家は経済の力を自分だけのものにして私腹をこやし、ブルジョア階級という新しい階級をつくって、彼ら以外が階級を上ることを事実上不可能な状況まで作り出してしまったのだ。
・・・
その問題を解消し、今度こそ本当の自由と平等を手に入れようとして登場した社会主義も、これまた同じ結果に陥った。
共産主義革命が起こっても、権力、地位、資本家(や貴族)から収奪した革命の果実は、共産党の特権官僚に移転しただけ。
社会主義は、共産党内部の階級差から目をそらさせるため、その活動を労働者の社会的、経済的地位の向上に限定した。
そうなると根本的な社会改革にはならず、労働組合主義として資本主義の枠内での会社や組織での組合運動にとどまることになる。
結局、社会主義も社会に真の自由と平等をもたらす思想ではなかったのだ。
・・・
以上が1930年頃のヨーロッパの状況である。
「経済人」の概念をもとにして、自由と平等が実現されるはずだった2つの思想(資本主義と社会主義)とそれによる社会秩序は行き詰まった。大衆はこれに絶望した。
既存の社会秩序が正当性を欠いて、「戦争」と「失業」という2つの魔物に対抗できなくなる。
しかも、混乱を収めるための新たな秩序は現れず、ますます混沌が極まった。そして、
・・・
「大衆は、世界に合理をもたらすことを約束してくれるのであれば、自由そのものを放棄してもよいと覚悟するにいたった」
のである。
・・・
>>>資本主義も社会主義もダメそこに登場した「ファシズム」
人間は弱い生き物だ。
社会がぐちゃぐちゃで先行きが不透明になることに耐えられず、「パワハラ」的に自由を奪われてもいいから、強い力で自分たちを導いてくれる体制を求める。
そこに現れたのが「ファシズム全体主義(以下仮にファシズムという)」である。ファシズムは個人の自由を徹底的に制限し、前向きな信条は何もなくとにかく過去はすべて――経済人モデルも含めて――完全に否定する。
・・・
「ドイツとイタリアのファシズム全体主義において、もっとも重要でありながら最も知られていない側面が、個々の人間の位置と役割を、経済的な満足、報酬、報奨ではなく、非経済的な満足、報酬、報奨によって規定していることである」
・・・
つまり、経済の力を使って自分の力で自由になることは否定され、弾圧されたのだ。
人間は経済の力で生きているのではないことにされ、ファシズム政権が人々の社会的な役割や位置づけを完全管理した(ここでは詳述しないが、ユダヤ人は血統がどうのというよりも、お金もうけ、経済人の象徴として弾圧されたのである)。
・・・
たとえば、ファシズム政権によって、農民は「民族の背骨」、労働者は「民族の精神」として称揚された。
恵まれない層に対しては、オペラ、コンサートへの参加、外国への旅行などが提供された。
ブルジョア階級には「文化の担い手」という地位が与えられた。
ファシズム政権下では、あらゆる人間が経済的地位とは無関係だった。
あたかも中国の文革時代のようである。
・・・
では、ファシズムが否定した経済人に代わるものとして、新しく概念化された人物像は何か。
それが「英雄人」である。
いつでも自らを犠牲にする用意があり、自己規律に富み、禁欲的で強靭な精神を持つ人間を指す。
英雄人が、経済活動とは無縁で、国の中で役割を果たせる場所、それが国民皆兵の軍隊である。
こうしてファシズムは必然的に軍国主義化する。
・・・
「あらゆる経済活動と社会活動を軍事体制下に置くという軍国主義は、産業社会の形態を維持しつつ社会に対して非経済的な基盤を与えるという、きわめて重要な社会的役割を果たしうる。
しかも同時に、完全雇用をもたらし、失業という魔物を退治する役割を果たす」
・・・
>>>ファシズムは経済の自由を否定し人を兵隊として体制に組み込む
ファシズムでは自由な経済活動をさせず、禁欲を説いて、国民に節約させる。
国民が貯蓄したカネは、国が公債を発行して国民にそれを買わせることで、国が吸い上げて、財政基盤を確立し、軍需産業を興し、軍隊を強化して完全雇用を実現する。
つまり、脱経済至上主義と軍国主義はセットになって「失業」という魔物を退治した。
一方でもう一匹の魔物である「戦争」を意義のあるものとして利用する。
戦争があることで、英雄人に経済活動をさせずに、国が「兵として働き、犠牲をいとわず国に尽くす」という役割や意義を与えることができる。
・・・
しかし、国のために死ぬのが英雄人というような犠牲の正当化は社会を破壊する。
プロパガンダはともかく、ファシズムの大衆も実際には戦争が怖いし、したくなんかない。
というわけで、英雄人という概念による社会の構築はひとまずは成功しなかった。
・・・
このような状況では、逃げ道は一つしかない。それは、すべてを他人のせいにすることである。自分たちは正しいが、どこそこの国は絶対悪である、ということにして戦争をするのである。
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「ファシズム全体主義だけが敵からの脅威の存在を自らの信条そのものの実体として扱う。
そして、ついには、彼らからの脅威の絶滅こそが、ファシズム全体主義の正当化の事由とされる」
・・・
この延長線上で、ファシズムは再び欧州全体を戦火に巻き込んだ。
本書は、第二次世界大戦勃発前に書かれているが、ドラッカーは「前向きな信条」が何もないファシズムでは、新しい社会を作り得ないことを誰よりも深く理解していた。
そのうえで13世紀と16世紀にあった秩序崩壊に関してこう語る。
・・・
「古い秩序が壊滅し、新しい秩序が出現するまでの転換期の時代は、まさに今日のように混沌、恐慌、迫害、全体主義の時代とならざるを得ない。
あの頃も終末が到来し、新しい展開はありえないと考えられた。
しかし、突然、いずこからともなく、新しい秩序が現れ、悪夢はあたかも存在していなかったかのように消えた。
(中略)「経済人」の社会が崩壊したあとに現れる新しい社会もまた、自由と平等を実現しようとすることになる。
その未来の秩序において、人間の本性のいかなる領域が社会の中心に位置づけられるかはわからない。
しかしそれは経済の領域ではない」
・・・
>>>英首相になる前のチャーチルもドラッカーの洞察力を激賞
ドラッカーは、経済人の枠を超えて、新しい社会や自由をもたらす思想を希求していた。
かくして、『「経済人」の終わり』が本書のタイトルとなったのである。
・・・
本書は、首相になる前のチャーチルが書評で激賞したことでも有名である(書評は『「経済人」の終わり』に付録として収録)。
ドラッカーの思考のエッセンスを3ページで書ききった、エネルギーに満ちた書評である。
・・・
「英雄人は成立しない、経済人は終わる」と言いはしても、次の時代のモデルを示さなかったドラッカーに対し、チャーチルは資本主義の失敗を指摘しつつ、まだ経済人もブルジョア資本主義も死んではいないと宣言する。
実際、資本主義はその後度重なる修正を加えて生き続け、新たな人間像のモデルも生み出されてこなかった。
・・・
ただチャーチルは、ドラッカーを「独自の頭脳を持つだけでなく、人の思考を刺激してくれる書き手である。
それだけですべてが許される存在である」とまで称賛する。
初版の序文を書いた当時の有名なジャーナリスト、ブレイスフォードも「人の知覚力において差がでるものは動くものにおいてである。
動かないものであれば誰でも見ることができる。
複雑なるものの中にパターンとリズムを識別するには、格別の眼力を必要とする(中略)ピーター・ドラッカーには、そのような才能がある」と褒め称えた。
本書は動いている社会のなかにある真のパターンとリズムを、ドラッカーの洞察力が見抜いた卓越した書と言っていい。
・・・
>>>1930年代と似た現代ドラッカーならどう分析したか
さて、視点を現在に向けてみよう。
我々は新型コロナウイルスという魔物の支配下からまだ抜け出せていない。
ワクチン開発の進展などでようやく一筋の光が見えてきたところだが、首都圏を中心に再び緊急事態宣言が発令され、失業という魔物の増加も予測される。
その一方で、この危機を機会ととらえ、自国の影響力を世界的に高めようとする地政学的な思惑と行動がうごめいている。
・・・
もう一つの魔物である戦争は、世界各地で今もやむことはなく、覇権国争いとしての米中対立も「トゥキディデスの罠」(覇権国とそれに挑む新興国が折り合えないまま戦争に至ってしまう状態)にはまり、今後、本格的な戦争が引き起こされる可能性も否定できない。
・・・
修正を重ねてきたはずの資本主義が、どうしようもない大きな不平等を生み出している。
アメリカで顕著になっている社会の分断も、実際には二極化ではない。
「経済人」的パラダイムを引きずるワシントン的思考と、非合理であっても自由を求める「自由人」と、たまりにたまった不平等の解消こそが第一と考える「平等人」の3分断であり、自由人と平等人はいずれも経済人的思考の限界から生まれた異母兄弟と考えるほうがよいのかもしれない。
・・・
また、物財やサービスを中心とする産業構造が、データや人工知能を利用するデータ資本主義の段階に突入し、これらが既存の物財・サービス産業に影響を及ぼし始める時代に突入している。
その結果、既存の産業政策と統治の方法がマッチしなくなっている。
しかし、一方では、これまで判明していなかった因果関係が明らかになり、予測のレベルが大きく上がることで、これまでよりずっと効率性の高い社会が実現可能になろう。
・・・
その際に、個人の私権(自由)が全体最適のために制限される局面も増えるだろう。
多少のナッジ(自発的に自分で選んだかのように望ましい選択や行動をさせる工夫)でそれらの問題が解決できるのか、それとも公共の福祉や全体最適のために個人の自由が大幅に制限される社会に変わっていくのか。
いずれもあり得ることだろう。
・・・
さらには、気候変動という人類史上最大の魔物との対峙が始まっている。
一部には、因果性を疑う声もあるが、地球の温度上昇と産業発展との関係はほぼ確実であろう。
未曽有の台風、消せない山火事、隠れていた病原菌の再活性化などが予測される。
これらへの対処は、SDGsといった免罪符のレベルでは対応できず、経済活動を強力に制限して抑え込むべきだという思想が強まるのではないか。
それは利潤動機の資本主義をストップし、地球環境の維持を動機とする計画経済(のようなもの)を求める世界的運動になることを指す。
この場合は、人々を「経済人」ではなく、「環境人」と呼ぶモデルかもしれない。
・・・
これらは、我々が直面しているほんの一部の問題に過ぎない。
実は、このような現象の羅列ではなく、動きの本質を見抜き複雑な因果関係を整理し、その根本的な運動法則を一言で言い放つとともに、その必然的な結果を断言してきたのがドラッカーだった。
・・・
今ほどドラッカーの見立てを聞いてみたいときはない。
亡くなって15年以上もたってしまった。
ドラッカーだったらどう考えるか。
それを想像するしか、我々にできることはないのがとても残念である。
(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)
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https://diamond.jp/articles/-/260133
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「気候危機」を面前にしての、混乱である。
当時も混乱そのものだったと思う。
専制主義と言っても、独裁そのものの国が、混乱を起こしている。
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新しい時代を、国連という機関を動かして、なんとか進むしかないのでしょう。
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では、草々
2022-6-19
森下克介
Posted by もりかつ at 14:59│Comments(0)